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【アラベスク】  第10章 カラクリ迷路



第1節 午前中は晴れ [1]




 身を捩って体勢を変え、詩織(しおり)はテーブルの上に手を伸ばす。リモコンでテレビのチャンネルを変える。
 主婦向けの情報番組。巷で騒がれるエコロジーを意識した節約術の紹介。
 リモコンのボタンを押す。
 最新のサギ事件の実態を暴く。元詐欺グループの一人だと証する登場人物が、ヘリウムを吸い込んだような声で得意気に語る。
 ボタンを押す。
 時代劇。
 ボタンを押す。
 韓国ドラマ。
「ふぁぁぁぁ〜」
 手で隠しもせずに大欠伸を放ち、詩織はリモコンをテーブルの上へ放り投げた。
 寝そべるソファーは心地良い。窓の外は秋晴れ。
「いい天気だなぁ」
 一人呟き伸びをする腕に柔らかな感触。首をめぐらせる先で、薄いベージュが品良く揺れた。脱ぎっぱなしのスカート。このままでは皺になるだろう。
 だが詩織は身を起こそうともせず、触れた指先でチロチロとスカートの裾を弄ぶ。
 貰い物だ。
 以前住んでいた下町のアパートが火事で全焼した時、霞流(かすばた)家という豪邸に居候していた事がある。(あるじ)の孫だと言う男性に良くしてもらった。
 名を霞流慎二(しんじ)と言い、詩織の娘である美鶴(みつる)とは古い駅舎を通じての知り合いらしかった。
 見栄えの良い男性だった。物腰も柔らかく、人当たりも良い。火事でほとんどすべてを失ってしまった二人に、いろいろと援助もしてくれた。母のものだというこのスカートも、快く譲ってくれた。
 詩織は寝返りを打つ。ほどよく肉のついた右足が、ソファーから落ちた。なんともマヌケな体勢で天井を見上げる。
 霞流邸での優雅な生活。だが、この部屋に移ってからは、ほとんど付き合いもなくなってしまった。
 詩織は、天井を見上げたまま瞬きをする。
 あれは、夏の蒸し暑さが日本列島に蔓延(はびこ)り始めた頃だったはずだ。今年の夏も暑くなりそうだと予感させる夜だった。

「ほらほらっ ちゃんと乗らないと」

 酔っ払った店の常連客を手際よくタクシーに乗せ、走り去る車に思わず笑みを零しながら店へ戻ろうと、詩織は身を反転させた。
 一瞬だったから、あの時は確証がなかった。

 だが―――

 詩織は、寝癖だかクセ毛だがわからないような髪の毛を左手でモジャッと握ると、ソファーと後頭部の間にねじ込んだ。
 一ヶ月ほど前、美鶴が中学時代の同級生に拉致監禁された。場所は繁華街の雑居ビルの地下。詩織が勤める店からなら、頑張れば歩いて行ける。
 普通の人間なら存在すら知らないであろう監禁場所を、霞流慎二は特定してみせた。
 ビルの場所は、携帯のGPS機能で。地下の特定は、知り合いを使って。
 知り合い―――
 美鶴の付き添いと称して自宅まで来た山脇(やまわき)瑠駆真(るくま)の話では、ずいぶんと奇抜な人間であったらしい。明らかに男性なのだが、どことなく女性。そして、霞流慎二の事を"慎ちゃん"と呼んでいた。

 あの夜――――

 初夏の夜。蒸し暑さが滞り始めた深夜の裏路地でタクシーを見送ったその後に、詩織は金色の髪の毛を見た。付き添う人間の肩を抱き寄せ、一瞬にしてビルの陰へと消えた。
 今となっては間違いないだろう。あれは霞流慎二だった。
 詩織は身を起こし、テーブルの上の缶ビールへ手を伸ばす。発泡酒ではない。マスメディアが第三のビールと称する飲み物でもなく、(れっき)としたビールだ。店で貰ってきた。このご時勢、自分では買えない。
 すっかり(ぬる)くなってしまった。一口啜る。
 霞流慎二と初めて会ったのは、アパートの火事場だった。

「お久しぶりです」

 ボロアパートの惨憺(さんたん)たる残骸の傍で美鶴へ会釈するその仕草は、優雅の一言に尽きた。細く長い指を胸元に添えて軽く微笑むその姿は、まさに紳士そのものだった。
 その紳士と美鶴が、夏休みに京都へ一泊旅行に出掛けていた。
 一晩帰っていなかった事は知っていたが、しつこく咎めようとは思わなかった。中学二年の時にこっぴどく失恋して以来すっかり反抗的になってしまった娘には、しつこい態度は逆効果だろうし、それに、美鶴ならそれほど心配する必要はないと思っていた。
 美鶴が失恋した事ぐらい、詩織は知っている。美鶴は隠しているつもりのようだが―――
 母親は、娘が考えている以上に娘を知っている。
 一晩くらい帰らない事があっても、いわゆる世間が如何(いかが)わしいと称するような事を美鶴が起こすとは、詩織は思っていない。
 思っていないし、そんな事を美鶴が起こせるはずもないという事など、詩織にはわかっている。
 美鶴には起こせない。詩織にはわかる。







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